朝クラ
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世界で活躍する音楽家との対談 Vol.6 ~ルーカ・ゴルラ氏~

こんにちは!イタリア・ミラノ留学中の清水優美(しみずゆみ)です。

今回の世界で活躍する音楽家との対談シリーズは、ミラノ出身のピアニスト、そしてコレペティトールであるルーカ・ゴルラ氏にお話を伺ってきました。私がイタリアに来た当初からの師匠でもあります。

ミラノ出身のゴルラ氏は、ヴェローナ音楽院で研鑽を積んだ後、ミラノ大学文学部を卒業されました。1981年にイタリア・ストレーザ開催の国際音楽コンクールで優勝したのち、ピアニストとして、そしてコレペティトールとしてもキャリアをスタート。これまでにマリエッラ・デヴィーア氏、ミレッラ・フレーニ氏、ルチアーナ・セッラ氏、レナータ・テヴァルディ氏など、名だたるアーティストの方々と共演されています。

ベルカントオペラを専門とし、イタリアオペラの歴史を語る上で欠かす事のできないロドルフォ・チェッレッティ氏やアルベルト・ゼッダ氏のアシスタントを長年つとめられました。

イタリア国内の劇場・フェスティバルはもちろん、プライベートではソプラノ歌手の新垣有希子氏とご結婚され、東京にもご活躍の幅を広げていらっしゃいます。自身のピアニストとしての活動のほか、後進の指導にも尽力されており、数々のマスタークラスで教鞭を取られています。

また、ラジオや音楽雑誌などへの寄稿、長い歴史を持つクラシック・レーベルであるドイツ・グラモフォンのレコーディングを監修されるなど、ゴルラ氏の活動は多岐に渡ります。
今回は、ゴルラ氏のミラノのご自宅にお邪魔し、お話を伺ってきました。

 

-この度は、対談を快くお引き受けくださり、ありがとうございます。早速ですが、音楽、特にオペラに関心を持たれたきっかけは何かあったのでしょうか?

子供の頃から音楽が好きでした。叔父が歌手だったので、彼の演奏を聴く機会に恵まれたことは、かなり大きなきっかけになりました。

 

-なるほど!

オペラや声に興味を持ったのは、ここミラノのスカラ座で、オペラ《ドン・パスクワーレ》のフィナーレを聴いた時でした。とても大きな影響を受けて、オペラやクラシック音楽の魅力にのめり込んでいきましたね。

 

 

-そうすると、クラシック音楽への愛は、オペラから始まったのでしょうか?

そうですね。同時にすごく興味が湧きました。すぐにピアノを始めたくなったのですが、父の仕事の都合でヴェローナ (※ミラノから電車で2時間ほどの街)へ引っ越すことが決まり、ヴェローナ音楽院でピアノを学ぶことにしました。そこで、当時は一般的ではなかったのですが、(ピアノのソリストとしての勉強だけでなく)オペラのレパートリーもピアニストとして学び始めたのです。それは、その年のクリスマスに、両親がオペラ《セヴィリアの理髪師》の楽譜とレコードをプレゼントしてくれたのが、きっかけになりました。チェルニー、バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトなどのピアノ曲を練習するのと並行して、オペラを弾きながら歌うようになったのです。だから、オペラへの興味は、ピアノ曲の勉強を始めたのと同時に生まれましたね。

 

-日本では、子供の頃から音楽院 (音楽大学)に入って学ぶというシステムがないので不思議な感覚です。

でも、妻が日本人ということもあって知ったのですが、日本でも小さい子供の頃から楽器を始める人が多いですよね。私がピアノを始めたのは、8歳ごろでしたので、割と遅い方だったかと思います。それまで、全くピアノの勉強をしたことがなくて、 (楽譜を読まずに)耳でメロディーを覚えて、小さいおもちゃのピアノを弾いていました。その後、10歳の時に音楽院に入ったので、日本や他の国の人たちに比べると遅いと思います。

音楽院には、当時9歳か10歳頃からしか入学できなかったので、私は入学と同時にピアノを始めたのですが、他の生徒はすでにプライベートでレッスンを始めていました。音楽院に入学する時に、適性テストを受けましたが、先にお話したように、私の音楽への思いは入学前からすでにありました。ヴェローナやベネチアでオペラの公演をたくさん観たのも大きいです。その後、ミラノに引っ越したのですが、更に多くの機会に恵まれました。

 

 

-そうすると、コレペティトールになることは自然なことだったのでしょうか?

そうですね、ピアノを教えることも早いうちから始めたので、それはメリットだったと思います。いつも、23~26歳頃のあまり歌手の伴奏をした経験がない、オペラを聴いたり、弾いたりする機会が少ない学生から、「どうしたら、何をしたら、先生のようなキャリアを築くことができるのでしょうか?」と尋ねられます。

私の経験は少し特殊なのですが、質問に答えるとしたら、私はピアノを始めてすぐの頃から、オペラの曲をレパートリーとして弾いたり、劇場にもよく足を運んだりしていたことでしょうか。なぜそこまでしたかったのか、理由ははっきりとしなかったのですが、ただただオペラを愛していて、ピアニストにならずとも、オペラのコレペティトールとしてやっていく道もあるのだということが分かったのです。割と早い段階でそのことに気づくことができました。

それに加えて、ビアンカ・コーエン先生という、良い先生に出会えたこともラッキーでした。彼女は、生徒一人一人の可能性を理解してくださる素晴らしい方でしたね。彼女は私のオペラへの愛や、読譜が得意だったこと、私の音楽へのアプローチの仕方などを見て、励ましてくださり、寄り添ってくださいました。全ての先生ができるような簡単なことではないと思うのですが、他の生徒にも同じように接していらっしゃいました。

 

 

-確かに、先生が寄り添って励ましてくださるのはとても大切なことだと感じます。

そうですね、誰かに理解してもらうことは大切です。私は若い頃、音楽学者になりたかったのですが、それも応援していただきました。

 

-子供の頃に音楽学者になることを夢見る人がいるとは…!

結局、音楽学者にならなかったことは、今思えば良かったと思いますが、当時はどうしてもなりたかったのです。大学進学に当たって進路を決める時に、音楽学の道に進むこともできました。でも当時はクレモナにしか音楽学を学べるコースが存在しなかったので、そこか、大学で別の興味のある学部に出願することもできました。最終的には、イタリアの現代文学に興味があったので、文学部を選びました。というのも、私は勉強するのも好きですが、演奏するのも好きで、ただ音楽学者になりたいわけではないのだと、分かっていたからです。

 

-今後のキャリアや人生を選択する大切な時期だったのですね。

そうですね、どの道も有意義なものばかりでしたが、その上で自分が何をしたいのかを理解することが必要ですよね。先ほどもお話したように、私は定期的に劇場に通い、オペラを観ることで、自分で自分を理解することができたのです。ピアノを弾くのも好きで、楽譜を読むのも難しくなかったことも、大きな要素でした。これらすべてのことと、先生や友人たちとの出会いが、私のキャリアのターニングポイントとなりました。でも音楽史を学ぶ可能性も捨てきれませんでした。

 

 

-大学卒業後、ピアニストとしてのキャリアをスタートさせたのでしょうか?

日本には「音楽大学」がありますから、システムが違うと思うのですが、イタリアの「音楽院」は数年前までは音楽家が勉強する場所でした。今は音楽院が大学のような存在になっていますよね。当時は音楽院を卒業すると、学位ではなくディプロマがもらえる形でしたので、理論的には音楽家はすでにキャリアをスタートさせることができたのです。

私はイタリア文学を勉強したくて大学には入りましたが、在学中にはすでに音楽家としての仕事を始めていました。大学もすぐに卒業する必要はなかったので、学業と仕事を並行していました。今とは違いますね。とはいえ、私の卒業研究は音楽史に関するものでした。

つまり私のキャリアは、高校を卒業した18歳のときに、歌手のコンサートやフェスティバル、劇場で働く機会を得たところから始まりました。そこで、コレペティトールやピアニストとして働いていました。同時に、コンサートや劇場、オペラ公演にも通い続け、歌手や音楽家、演出家など、さまざまな人たちと知り合いになりました。

 

-多くの人と出会い、仕事をすればするほど、チャンスが生まれますよね。

その通りです。これまでの私の人生において、人との出会いがとても大切でしたね。幸運なことに、偉大なピアニストであり、偉大な先生たちとの出会いだけでなく、音楽業界で活躍する多くの人たちとの出会いに恵まれました。

仕事を始めてしばらくして、有名な音楽評論家であったロドルフォ・チェレッティ氏との出会いも重要なものでした。彼が新聞に書いていた歌や音楽史に関する記事をよく読んでいたのですが、他の方とは違う彼のアプローチに、いつも感心していたのです。

手紙を書いて、実際にお会いすることができたのですが、私のキャリアにおいて本当に大切な瞬間になりました。たくさんの本を書かれた方で、一般の方々はもちろん、業界の人たちのもとても大きな影響を与えました。とても明確で、時には厳しいことも書かれていましたね。
彼のオペラへの評価やアプローチの仕方はもちろん、特に18、19世紀のベルカントの研究への貢献は素晴らしかったです。技術的な面を深く掘り下げる彼のメソッドと、その他の一般的なアプローチから、本当に多くを学ばせていただきました。

 

 

-チェレッティ氏のアシスタントとして働かれていたのですよね。

そうなのです。チェレッティ氏は、音楽評論家としてだけでなく、イタリアのプーリア州にあるマルティナ・フランカ・フェスティバルの創始者の一人、そして、長年芸術監督としてもご活躍されました。このフェスティバルは、ミラノのピッコロ劇場 (※ミラノ市内にある演劇の劇場)を設立したパオロ・グラッシ氏によって設立されました。彼は、ベルカントの音楽祭を設立したいと考え、オペラの専門家としてチェレッティ氏を、そして指揮者のアルベルト・ゼッダ氏を呼び寄せたのです。私はチェレッティ氏と知り合いだったこともあり、音楽祭でピアニスト兼アシスタントとして彼と仕事をするようになりました。その時に、ベルカントオペラの大御所であったマエストロ・ゼッダ氏にも出会い、彼らが私の師匠の様な存在になりましたね。

歌手とともに勉強し、練習し、コンサートで演奏することはもちろん、コレペティトールとして劇場でも働きました。私はすべてのレパートリー、解釈の歴史、歌手、レコードとその歴史について知っていて好きだったのですが、それはチェレッティ氏も同じだったようです。彼は私を息子のように扱ってくれましたね。その後、ペーザロのロッシーニ・アカデミー、ブッセートのヴェルディ・アカデミーでの仕事もいただけて、そこでも歌手のカルロ・ベルゴンツィ氏など多くの方々に出会うこともできました。彼からも多くのことを学ばせていただきました。

 

-現在も教授として、教鞭を取られているミラノ音楽院やその他の学校で教え始めたのはいつ頃だったのですか?

教える仕事と、ピアニストやコレペティトールとしての演奏の仕事は、ほとんど同じ時期に早い段階から始めました。不思議なことに、私は若い頃から非常に有名な歌手と、個人的に仕事をすることが多かったので、組織に属していたわけではありませんでした。例えば、ルチアーナ・セッラ氏、ミレッラ・フレーニ氏、ルッジェーロ・ライモンディ氏などとご一緒しました。アカデミーに教師として招かれることもありましたね。ロッシーニ・アカデミー、オージモ・アカデミー、ヴェルディ・アカデミーなどで、たくさんの若い歌手と仕事をしてきました。それから、チェレッティ氏があちこちで講習会をされていて、ミラノ音楽院でも毎月1週間、1年間のコースを担当していました。チェレッティ氏のミラノ音楽院での講座で、コレペティトールとして働いたことがきっかけで、現在は正規授業の教授として教えています。それまでは教師になろうとは思っていなかったのですが、ミラノ音楽院と定期的にお仕事をさせていただくようになり、特に私が住んでいるミラノにある音楽院ということもあって、お引き受けしました。

他にも、マルティーナ・フランカの音楽祭での素晴らしい外国人歌手たちとの出会いは、とても大切なものになりました。そのうちのひとり、オランダ出身のニコライ・コック氏は、マルティーナ・フランカ音楽祭に参加した数年後に、オランダで当時は存在しなかったベルカント専門の音楽祭を設立したのです。ドルドレヒトという街で15年間続いたその音楽祭で、芸術監督をしていました。このフェスティバルは、ドルドレヒト・ベルカント音楽祭と名付けられていたのですが、本当に多くの若い歌手たちに出会う機会になりました。そしてそれらの全ては、チェレッティ氏との出会いから始まっているので、運命のようなものですね。チェレッティ氏がマルティーナ・フランカ音楽祭を引退した時、私も同じように区切りをつけました。

現在は、今秋からNHK交響楽団の首席指揮者であり、ニューヨークのメトロポリタンやチューリッヒでも活躍した名指揮者のファビオ・ルイージ氏が、マルティーナ・フランカ音楽祭で音楽監督に就任されています。世界的に活躍しているにもかかわらず、夏の間をマルティーナ・フランカで過ごしているのです。私も、戻ってこないか、と声をかけられ、3年前から教えています。私たちはチェレッティ氏の音楽においての後継者のようなものなのですよね。

 

-素晴らしいお話をありがとうございました。さて、話題を変えて、少しありきたりなご質問になってしまうのですが、一番好きなオペラは何ですか?オペラを知り尽くしていらっしゃるからこそ、伺ってみたいと思いまして。

これは難しい質問だと言う人もいますが、私にとっては違って、お答えできます。ムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》です。このオペラは、単に素晴らしいというだけでなく、若い頃に劇場で聴いて以来、ずっと魅了され続けてきたオペラなのです。もし、私が子供の頃にこの質問をされたら、ヴェルディの《リゴレット》と答えていたと思います。劇場で《ボリス・ゴドゥノフ》を見るまでは、《リゴレット》、《セビリアの理髪師》、《オテロ》などが好きでした。その後、《ボリス・ゴドゥノフ》を見て、すべてが変わりましたね。ロシアの音楽も好きです。馴染みのない言語ですが、だからこそ、どこかエキゾチックで…それが理由かもしれません。大好きなオペラですが、教えることはできなかったので、いつも偉大な歌手たちによって演奏されるのを観ていました。

 

 

-ゴルラ先生と一緒に勉強させていただく中で、それまで知ることがなかった素晴らしい作品に出会うことができました。曲への探究心、エネルギーは、どこから来るのでしょうか?

そうですね、音楽を始めた当初はできるだけ多くの曲を覚えようと思っていて、最初は有名な曲ばかりでした。そして、先ほどお話した「音楽学者」に興味が出てきた頃から、より多くのレパートリーを学ぶようになり、あまり知られていない曲も好きだということに気づいたのです。文学や映画でも同じことが言えますね。人は常に、あまりに知らなさ過ぎるのです。
マルティーナ・フランカ音楽祭では、あまり知られていないオペラがたくさん上演されましたが、コンサートで面白いレパートリーを探すのに役立ちました。

 

-先生にとって、新しいことを知るのは楽しいことですか?

そうですね。ひとつのオペラの歴史を調べてみると、有名になったり、そうでなくなったりするのは、偶然だったり、ただ運が悪かっただけという場合があります。また、演奏が悪くて駄目になって、忘れ去られることも。もちろん名作もありますが、あまり知られていないオペラでも、とても良いのに忘れられていることが多いです。オーケストラの音楽も同じです。また、有名にならなかった素晴らしい歌手もたくさんいます。

 

-今はインターネットがあるので、とても簡単に良い作品や歌手に出会うことができますよね。以前はもっと大変だったのでしょうか?

そうなのですよね。膨大な量の作品がありますから、今は本当に多くのことを見つけることができます。いずれにせよ、私は昔から好奇心が旺盛だったので、新しいものを探そうという気持ちがありました。例えば、バロック音楽。今は昔よりずっと多くの人がバロック音楽に関心がありますよね。でも、ヘンデルを例に取ってみると、彼は多くのオペラを書き、そのいくつかは今では一般に知られているものの、まだまだ知られていない、良いアリアがたくさんあるのです。新しい、美しいものを学ぶことは飽きることがありませんね。

 

 

-さて、最後のご質問です。今後のプロジェクトやご予定と、新型コロナによって大きく影響を受けている日本の学生さんたちへのアドバイスをお願いします。

今後の予定は色々とあるのですが、マルティナ・フランカ音楽祭が再スタートしたので、やるべきことがたくさんありますね。もちろん日本にも行けることを願っています。日本でもたくさんのコンサートとマスタークラスがあるので、キャンセルされないことを心から願っています。8月から9月にかけて桐朋学園大学でマスタークラスやコンサートをする予定です。

学生さんにとってのこの時期の(イタリアでの)勉強については、かなりの決意と技術、犠牲が必要だと思います。でもそれがイタリア・オペラを勉強したい人にとっての最善の方法だと思います。

たとえ経験があったとしても、オペラが生まれた国、イタリア語言葉が話されている国に来なければならないので、そこは覚悟が必要ですね。難しいことだとは思いますが、正しい道だと思います。長く滞在するのは難しいかもしれませんが、短期間なら可能かもしれません。

ロックダウン中のオンライン授業は、それまで全くやったことがなく、慣れていませんでした。オンライン指導の方法を試行錯誤しながら探りましたが、うまくいくものといかないものがありました。すでに直接お会いしたことがある人や私が声を知っている人たちには、オンラインレッスンでも効果が出せると感じています。

だから、まずは対面で勉強することは重要なことです。対面レッスンでの経験がないと、何かが欠けてしまう可能性がありますが、対面レッスンをした後なら、オンラインでも良いかもしれません。

 

-興味深いお話がたくさんのインタビューをありがとうございました!

こちらこそありがとうございました。